家系図調査
~その2 賢忠寺への墓参り~
はじめに
父親の考えで三か所のお墓参りをすることになっている小田切家であったが、そのうちの一つのお墓は賢忠寺という広島県福山市の古刹でした。
小田切家四代前の当主美能里が葬られている賢忠寺とは、いったいどのようなお寺なのでしょうか?
賢忠寺と小田切家とのつながりについて、今回は調べていこうと思います。
※今回の記事の中にお墓の写真が出てきます。大正・昭和に建立されたとはいえ、やはり故人のお墓です。嫌悪感を抱く方はすぐにご退出ください。
墓参りについて
小田切家の墓参りは三か所をお参りすることとなっている。
嫁から数えて二代前、祖父義男の墓は岡山県笠岡市、義男の嫁である妙子の実家の墓は岡山県鴨方町、そして嫁から数えて四代前、高祖父美能里の墓は広島県福山市にあり、それぞれを参ることとなっています。転勤族の方とかであれば、一日で墓参りするなど不可能な人もおられましょう。その点、朝に出かければ昼過ぎには帰ってこれるので、近いと言えば近いのでしょうかね?
笠岡、鴨方、福山といえば一か所に集まっているようなものですからね。
一代前でも訪れない人が増えている中、四代前の先祖の墓をわざわざ訪れる、というのは恐らく現代では珍しい方ではないかと思っています。しかし、これもすべて先祖を大切にと考えている父親らしい、といえばらしい考え方です。
ですので、嫁と結婚することが決まってから、お彼岸の時期になると決まった年中行事としてお参りするようになったのです。
Google StreetViewより
賢忠寺について
賢忠寺の事をきちんと調べたことがなかったため、早速ググってみました。
通り一遍の話として、賢忠寺は福山藩主水野家の菩提寺として、初代藩主である水野勝成公が建立したという情報がすぐに判明しました。
現在はかなりや保育園をも経営されており、水野勝成公の教えを子供たちに伝えている、ということも判明しました。確かに、StreetViewで見た時に寺の境内にブランコが見えており、おかしいと思いました。
賢忠寺には徳川家康から寄進されたオランダ製の砂時計があるらしく、白と薄茶色が混じった砂が落ちるのに100分ほど掛かるため、時の記念日に幼稚園の子供たちに時間というものを教えるためにその砂時計を見せながら説法を行っているそうです。少し聞いてみたくなりました。
お墓について
※最初にお断りをさせていただきますが、今回ご先祖様のお墓の写真を公開しております。理由は追々わかるかもしれませんが、小田切家の歴史を継いでいくことが困難になった時に、このHPが未来に残っていくことを信じて公開させていただきます。少しためらいは感じておりますが、これは小田切家にとってとても大事なことだと信じております。
さて、前置きをさせていただきましたところで、お墓について書かせていただきます。
お墓は二基あり、右側が嫁から数えて四代前の当主、小田切美能里氏とその妻の墓となります。
向かって右側のお墓の正面にはお二人の戒名が書かれていました。
(右)曹源院彭隆泰仙居士
(左)曹源院彭質智仙大姉
恐らく、というか間違いなく右は美能里氏で、左が美能里氏の妻の戒名ですね。
左側のお墓は、生前のお名前を拝見してもよくわかりません。亡くなられた年代を見ると、昭和9年と11年と書かれてありますので、美能里氏の息子ではないかとも思われますが、美能里氏の長男とはお名前が違いましたので、美能里氏の兄弟夫婦の可能性も考えられます。家系図にはそのお名前がなかったので、とりあえず今回の調査からは除外して考えたいと思います。
2022年3月20日管理人撮影
お墓は年に2回、春と秋の彼岸に訪れますが、行くと花が供えられていることもあるのですが、お寺の方が供えていただいたような感じの花の時もあり、訪れる人が私たち以外絶えてしまっているような感じを受けました。
まあ、写真に供えられている花も豪華なものじゃなく、人のことは言えませんが。
父によれば「昔は行けば花が供えられていることがあった」とのことだったので、もしかすると墓守をされていた御本家に何らかの事情が発生したのかもしれませんね。
さて、この美能里氏ですが、家に帰り確認をしたところ、確かに家系図の中に載っていました。
小田切家家系図 (小田切家所蔵)
家系図
『
親豊次男
小田切美能里
維新廃藩後専(もっぱ)ラ武道指南に盡瘁(尽瘁、じんすい)シ齢古稀ヲ過グルモ尚福山中学校ヘ柔道指南指南ニ精励ス大正七年六月弐拾参日福山道三町ニ於テ逝去セリ
行年八十有六才
』
家系図にも書かれていますが、郷左衛門親豊氏の次男として生まれた美能里氏は武道に長けていたのか、明治維新後に武道指南を行い続け、古稀70歳を超えても福山中学校で柔術指南を行っていたが、大正7年に福山道三町で亡くなった、と書かれています。
見にくいんですが、確かにお墓にも「道三町」「行年八十六」と彫られておりますので、一致していることが確認できますね。
福山中学校とは、現在の福山誠之館高校のことであり、高校生相手に70の爺さんが柔道教えてたわけですから、老いて益々盛んなりですね。
賢忠寺と小田切家の関係について
さて、この賢忠寺は、最初にも申しましたが、水野勝成公の建立した寺で、代々水野家の菩提寺だった古刹です。では、美能里氏よりもっと遡って、江戸時代初期か戦国時代の先祖が水野家に仕えていたかどうかを確認したいと思います。
小田切家家系図 (小田切家所蔵)
【家系図】
『
慶長十九年寅歳元和元年乙卯歳大阪御陣両度出陣高名仕五月六日兵部少輔御父子討死ニ付右近太輔ヘ暇ヲ乞永々浪人ニテ在罷之処寛永二年乙丑歳御雇分御當分御約束ニテ内藤角右衛門佐伯喜兵衛以取次
正次様代被召出御合刀トシテ知行百石被下置御馬廻被仰付段御懇意被成下又百被下置御者頭被仰付御足軽小頭共二十六人御預被成候
』
【訳】
『
慶長19年寅の年、元和元年乙卯の年(1615)、大坂の陣に両度出陣し名を成したが、5月6日に主君小笠原兵部、少輔親子が討死をしてしまい、右近太輔へ暇乞いを提出、永の浪人となったが、寛永2年乙丑の年(1625)に当分雇いたいという約束で、内藤角右衛門に佐伯喜兵衛が取り次いでくれた。
正次様の代で家来として知行100石を頂戴し、馬廻役を仰せつかるようになった。また、御懇意にしてもらうようになり、また100石を頂戴し、足軽頭として26人を預かる身となった。
』
正次様が誰なのかは少し置いといて、とりあえずは小笠原氏に仕えていて、10年間程浪人をしてから内藤家に仕えたという話なので、水野家とは一切の関わり合いがない。
では、もしかすると正次様というのが水野家の人間なのかもしれない、ということで「内藤角右衛門 正次」で検索を掛けてみることに。
すると、正次というのは、鳩ヶ谷藩22000石の藩主・阿部正次のことだと簡単に知れた。この阿部家は後に鳩ヶ谷藩から大多喜藩、小田原藩、岩槻藩、宮津藩、宇都宮藩を経て福山藩に入る。
さらに検索に掛かった記事を読んでみると、内藤角右衛門というのは福山藩家老の家柄であることもわかった。時代が違うが、内藤角右衛門という名は世襲の可能性がある。
おや?何か違うぞ、と感じた。
小田切家は水野藩に仕えた後に阿部家に仕えたのではなかったのか?
この家系図によれば、阿部家にいきなり仕えているではないか。
では、なぜ水野家の菩提寺にあるのか、という疑問も片方では湧いてくる。……不思議はさらに不思議を呼んでしまった。
さて賢忠寺と小田切家のつながりについて調べてきましたが、結局なにやら分からずじまいで終わりを迎えました。
今後つながりが判明していくのか分からないままなのか。それは乞うご期待ということで、本日はこの辺で失礼します。
更新日:2022年07月31日