家系図調査
~その4 家系図の調査(2)~
情報量の少ないご先祖様たち
前回は家系図の見方をご紹介させていただきましたが、今回からは家系図を最初の方から紐解いていきたいと思います。
まず最初に出てくる人物は、
①『光孝天皇三代公忠胤』
です。この方が何者なのか、どこで切れば良いのかわからない、というほどの私の知識なのですが、便利な世の中ですよね。Googleで「光孝天皇 公忠胤」と調べましたところ、すぐに判明しました。
「源公忠」のことのようです。
源 公忠(みなもと の きんただ)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。光孝天皇の第十四皇子である大蔵卿・源国紀[注釈 1]の次男。官位は従四位下・右大弁。三十六歌仙の一人。滋野井弁と号す。(出典:Wikipedia)
小田切家家系図 (小田切家所蔵)
三十六歌仙の一人、ということもあり、非常に教養のある方の名前が出てきております。当然、光孝天皇のお名前も出てきており、三代目とありますので、家系図の書いてあることは正しいことが記載されていると思われます。さて、ここから線が引かれてありまして、ずっと左の方へ行くのですが、次に出てくるのが次の三名です。
小田切家家系図 (小田切家所蔵)
②『根井大彌太親武舎弟』
③『小田切太郎親世苗裔』
④『小田切太郎親世』
何度読んでも、ここの読み解きが難しく分からないのですが、まずは分かっていることをひとつづつ説明いたします。
①の源公忠の子なり、養子が②の根井大弥太親武舎弟ということになるのですが、公忠の息子に根井某の表記はありません。もしかすると何代か端折ってしまわれており、数代後に根井某がいるのかもしれません。ただ、(良いように云えば)その辺のいきさつがすっぽり抜け落ちている。なんとか読み解くカギとなりそうなのは、源公忠に関するWikipediaの記載に「滋野井弁」と号したとあります。滋野井ではありませんが、公忠の備考欄の所に「武田太郎信義胤姓海野本之姓滋野居甲斐」や「滋野棟綱信濃守幸義」という記載があります。確かに長野県上田市とお隣の軽井沢町のちょうど中間地点の辺りには滋野という地名があり、いかにも関連がありそうな記述がさりげなくなされています。
では、滋野井と滋野の関連ですが何かあるのか、と言われますとそれ以降はハテナ?となっております。
そして、②の子に小田切太郎親世苗裔となっていますが、苗裔とは子孫という意味ですので、親世の子孫の子に小田切太郎親世が出てきますので、親世はいったい何人いるのか。もう書いている意味がさっぱりです。良いように解釈すれば、子供が親より先に世襲したが、何らかの理由で親がそのあとを継いだのではないか、ということになります。(※【家系図通りの解釈】を参照のこと)
それとは別にはなりますが、「親武弟が根井小弥太行親」や「行親弟が小田切太郎親世」といった記述が備考欄にあるため、それらを総合して、【家系図の備考欄での解釈】にまとめてみました。
それでも、Wikipedia の記載と違うため、よくわからないですよね。
この件に関し、これ以上の調査はできないと思われますが、このまま終わるわけにもいかないので、Wikipediaによる情報もまとめて載せておいて、今後への宿題とさせてください。
小田切家家系図およびWikipedia の考察
上記数字は家系図上の当主順。ただし代数ではありません。
そして④の親世ですが、ここに重要なことが記載されています。
『頼朝家臣根井小田切之両姓併用』
つまりこの小田切太郎親世のころから小田切の姓を名乗り始めたということです。頼朝家臣と書かれていることから、頼朝の家臣となったころに小田切の領地を拝領したのか、移動させられたのか。ここにきてようやく小田切の地とつながりを持ち始めたのではないかと思っております。というのも、今までの滋野や根井がいずれも現在の佐久市周辺ということから考えると、小田切の土地は離れており、突然に離れた土地の名前をつけるとは思えなかったからです。
GoogleMap転載
そして、次に出てくるのは
⑤『小田切伊豫守親照』
で、ここから初めて名前に官職が付いてきており、律令制の中で定められていた、いわゆる「かみすけじょうさかん」の四等官制に基づいた官職名が付けられています。ただ、信州の片田舎の一豪族が伊予守を名乗れるわけもないので、勝手に名乗っているだけかと思われます。
勝手に名乗るのは筑紫国造磐井や平将門にも見られ、昔からよくあることではありますが、僭称したまま討伐もされずに放置されているのは、武家政権になってからの時代ではなかろうかと勝手に思っています。
また、親照の左上の備考欄には
『親道新武田信虎家臣成』
とあり、親道なる人物が新たに武田信虎の家臣となったことが記載されております。はたして親道と親照の関係は?
小田切家家系図 (小田切家所蔵)
輝かしいご先祖様たち
さて、ここからは少し家系図の趣きが変わってきます。一人ひとりの説明がやたらと長くなってきて、自慢話が始まります。
また、少々歴史好きであれば、おおぉっとばかりに声が洩れてしまうビッグネームが家系図に登場してきます。まずはこの方。
⑥『小田切治部少輔親丸』
一応、原文を読んでみますと、以下の通りです。
原文
『武田信玄属生国信州佐久郡小田切之者
同国小田切根井塚原落合高坂等賜知行所生ヨリ
騎馬三拾騎預其後又五拾騎預都合八拾騎也
信玄法体之節及老年法体此節信之字給号信念』
訳
『武田信玄に属し、生まれは信州佐久郡小田切にて生まれた者である。
小田切、根井、塚原、落合、高坂などの知行を賜り、騎馬30騎を預かっていたが、
その後また50騎を預かり、合わせて80騎の大将となる。
信玄が歳をとって法体となると、それに合わせて法体となったが、
信玄より「信」の字を与えられ、信念と号した』
武田晴信が出家し、信玄と名を改めたのは周知の事実として、それに伴い家臣も続いて出家したことも歴史的には分かっております。
山本勘助改め道鬼斎、原虎胤改め清岩、小幡虎盛改め日意、真田幸綱改め一徳斎と、枚挙に暇がないほど同時期に出家をしています。小田切治部少輔親丸もそれに倣ったのでしょう。
しかし、今あげた家臣たちの中で、「信」の字を与えられた人物が他にはおらず、よほど近しい間柄だったのか、武功を上げたのでしょうか。
⑦『小田切玄蕃允親敬(妻、馬場美濃守の娘)』
さて、次はこの玄蕃允親敬ですが、武田四天王とも言われる重臣の馬場美濃守の娘を妻に娶っていることから、かなり信頼が厚かったのではないかと思われます。
また、父親丸と同様に出家をしたことが記載されている。勝手な想像ですが、父子ともに晴信が出家した際に出家をしています。晴信の出家は一番激しかった川中島合戦の2年前1559年であることを考えると、子供の親敬が20歳ぐらいと仮定すると、生まれは1539年ごろでしょうか?
原文
『武田信玄家臣騎馬八拾騎預晴信法体之節
父自同事(同時?)法体信玄ヨリ法号付賜リ号西雲』
訳
『武田信玄の家臣として騎馬八拾騎を預かり、晴信(信玄のこと)が法体となった際に
父と同じように法体となり、法号を付けてもらい、西雲と号した』
小田切家家系図 (小田切家所蔵)
⑧『小田切備前守親政(妻、島津淡路守の娘)』
さて、次の人物、「小田切備前守親政」ですが、まずは原文を読んでみます。
この辺りから人物の解説が非常に長くなってきます。よっぽどこの人達のことをアピールしたかったのではないでしょうか?
原文
『武田信玄公属代知行之外川中島
久保寺小市猿子塚古芝喰之郷
為加増賜同家中高坂弾正昌信
相備ニテ八拾騎ノ騎馬を親敬ト同
意取扱永禄四辛酉歳九月拾日
川中島合戦砌抽戦功其後元
亀三壬申歳十二月廿二日遠州味
方ヶ原合戦之節平手播磨守五千
之備壱番乗込武功有之依而信
玄公ヨリ小炬臣刀ヲ給リ此刀於今
所持仕其以後天正十午歳勝頼生
害之後上杉大納言景勝公以由緒
拓給依天正十二甲申歳景勝属シ
格式甲府同上杉老臣直江山城守相備
且豊臣秀吉公異朝發向之節景勝
公ニ属シ打立於異朝乱防道具等
品々虽有之段退轉漸纔之品相残於
今所持仕慶十四巳酉歳五月十二日
奥州米澤於而病死同国會津於
龍禅寺葬』
訳
『武田信玄公に属し、代々の知行の他に川中島の
久保寺、小市、猿小塚(?)、古芝喰(小柴見?)の村々を
加増のために賜り、同家中の高坂弾正昌信と
相備えで80騎の騎馬隊を、親敬と同じ扱いにて
配置された。永禄4年(辛酉)9月10日
川中島合戦の際に戦功抜きんでており、その後
元亀三年(壬申)12月22日、遠州三
方ヶ原合戦にて、平手播磨守5千
の備えに一番槍を付けた武功により、信
玄公より□□□刀を受け取り、この刀を
今も所持していたが、天正10年勝頼
自害の後、上杉大納言景勝公に見出され、
天正12年(甲申)景勝に仕えた。
待遇は甲府と同じく、上杉の老臣直江山城守と相備え
かつ豊臣秀吉公が朝鮮半島への出征の際には景勝公の軍に
属し、朝鮮半島にて出陣をした。乱妨取りの道具などの
品々があり、退転の際にわずかばかりの品を残し
今なお所持している。慶長14年(巳酉)5月12日
奥州米澤にて病死。同国会津龍禅寺にて葬られた。
』
※上杉景勝の辺りから訳が怪しいです。
さて、ここで記載すべき点としては、川中島、三方ヶ原、朝鮮出兵と名だたる合戦を経験してきているということ。しかも三方ヶ原では一番槍で褒賞も貰っている歴戦のつわものであるという点でしょうか?
履歴書ともいうべき家系図に、このようなご先祖様がいることは非常に鼻高々であると同時に、その子孫であることで、仕官に有利に働くことを期待して記載をしたのかもしれませんね。
あと、妻の「島津淡路守の娘」の記載ですね。不勉強で、島津某という人物を存じ上げなかったのですが、こちらも調べてみました。
島津淡路守は、島津忠直のことで、薩摩島津と先祖を同じくする家系のようです。
『
忠直は信濃北部の水内郡長沼を本領とし、信濃村上氏や高梨氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に抵抗した。
しかし弘治3年(1557年)に長沼城 (信濃国)を追われ、大倉城に移った後、越後の上杉謙信の家臣となり、川中島の戦いに従軍した。
天正10年(1582年)、甲斐武田氏滅亡後、北信濃の領主となった森長可の組下に入ることを強要されたが拒み、芋川親正らと共に反抗した。
本能寺の変後、森長可が退去したことにより上杉氏が北信濃を所領に組み込んだ際、長沼城 (信濃国)に復した。
その後、家督を嫡男の島津義忠に譲り、慶長3年(1598年)の上杉氏の会津移封の際にはそれに従って信濃を去り、陸奥長沼城を与えられた。
同年、嫡男・義忠が死去したため、岩井信能の次男・島津利忠を義忠の娘婿にして家督を継承させた。
』(出典:Wikipedia)
この島津家について、Wikipediaよりもさらに詳しく調べておられる方が居ましたので、ご紹介だけしておきます。ご興味があれば下記リンク先より読んでみてください。
リンク先:◆戦国の足跡を求めて...since2009◆ 島津忠直
なにはさておき、北信濃島津家は戦国期よりも前から北信濃に土着し、北信濃一帯に十分な影響力を持っていたと思われ、その娘を妻に迎えているということは、やはり小田切家(武田家)が島津一族を取り込もうと画策していたのかもしれませんね。
そして気になる点としては、武田信玄亡き後勝頼に仕え、勝頼自害の後上杉景勝に仕えたという点、そしておそらく関ケ原合戦の後の転封の後、米沢に移り住んで、そこで息を引き取ったという点ですね。勝頼自害の後、川中島周辺は上杉家、根井の辺りは徳川家康が領有していたので、小田切家はこの時を境に上杉に与した小田切と徳川に与した小田切に分かれていったのではないでしょうか?
そして私が気になったのは、龍禅寺という名称のお寺ですね。このお寺が現在も残っていて、お墓があるようなことがあれば、この人物のもっと詳しい情報が手に入るのではないかと期待し、GoogleMapで調べましたが、残念ながらそういった名前のお寺は存在しませんでした。すでに廃寺となった可能性や誤字の可能性などが考えられますが、現時点では、これ以上の調査はなかなか難しいですね。
GoogleMapより、画像切り取り
さて、まだまだ家系図は続いていきますが、随分と長くなってきましたので、本日はこの辺で切り上げたいと思います。
では、次回も読んでいただけますよう、よろしくお願いいたします。