家系図調査
~その5 家系図の調査(3)~
ふたりの所左衛門
前回は家系図の中でも、かなりの紙面を割いていた『小田切備前守親政』までのお話をさせていただきましたが、今回はその親政を上回る情報量が記載されている『小田切所左衛門』についてお話をさせていただきましょう。
まず『小田切所左衛門』なる人物ですが、家系図には2名登場します。「武士は名こそ惜しめ」というほど名前というのは重要で、先祖や父親の名前を襲名もしくは名づけられることでその名前にふさわしい活躍をしたいという思いであったり、その名前にあやかって期待をしたりといった気持ちが働いているのだろうと思われます。有名どころとしては、伊達政宗も8代前のご先祖である政宗の名前を継いでいます。
ただ、あとで考察も行いますが、実はこのふたりの所左衛門さんは同一人物ではないかと思われる節もあり(時代的に近いこともある)、その辺も含めて読んでいただけるとありがたく思います。
ふたりの所左衛門 小田切家家系図より(小田切家所蔵)
※右が前の所左衛門、左が後の所左衛門
さて、上の図にもありますように、まずはふたりの所左衛門さんについて読み解いていきましょう。
ただ、同じ所左衛門さんですので、わかりやすくするためにも、前の所左衛門さんと後の所左衛門さんと書かせていただきます。
前の所左衛門さんは、名前が所左衛門親義となっている方ですね。
前の所左衛門
家系図には『小田切備前守親政』から線が引かれてありますので、『小田切所左衛門親義』は息子いうことになります。前の調査によれば、父の『小田切備前守親政』は武田信玄没後に上杉謙信へ主君を変えていますので、そのまま父について行っているのであれば上杉家の家臣ということになります。
では、家系図を見てみましょう。

小田切家家系図 (小田切家所蔵)
原文
『慶長六(丑)歳四月伊達政宗奥州景勝之地
布施次右衛門北川図書小田切所左衛門弐拾騎余驀進シ
川ニ乗入打渡ス
宇佐美民部鎗ヲ横タエ残ル兵ヲ押留メケリ
掛レ共政宗押来
先陣片倉小十郎透間モ無切テ掛ル
岡野四百斗リ真丸ニ成テ鎗ヲ打入靣モ振ズ
喚キ叫ンデ戦ヒケレ共大軍ニ取囲マレ
左内僅ニ打ナサレ切腹シテ引退ク
北川馬之首ヲ立直シ小田切ニ向
只今討死セン會津ニ残候十四歳ニ成ル吾子ヲ嘱申ス
是形見ニ贈リ而賜ハリ候ヘト猩々緋之羽織ヲ
腰に挟ミケリ北川今ハ思ヒ置事無シトテ
追来ル敵ノ中ニ馳入テ切死シタリ永井ニ欺クト言ヘ共
驚イテ従者ニ見ズレバ母衣ニ三刀鞍ニモ刀之痛有
永井今日は助ケラレシ一礼ヲゾ陳ベタリ
小田切モ敵三騎ニ取巻カレアハヤ打タレヌト見シヲ
青木又掛寄テ敵ヲ追払フ』
訳
『慶長6年4月、伊達政宗が奥州上杉景勝の領地に(押し寄せ)
布施次右衛門、北川図書、小田切所左衛門ら二十騎余りが押進み
川に乗り入れて合戦を始めた。
宇佐美民部は槍を横たえ残る兵を押しとどめていた。
戦闘が始まって政宗が兵を押し出してきて、
先陣片倉小十郎息つく間も無く押し寄せてくる。
岡野は兵400ばかりで円陣を組んで槍を打ち入れ、脇目も振らず一心に
わめき叫んで戦ったが大軍に取り囲まれてしまった。
左内は敵をわずかに討ち取ったが、切腹して兵を引いた。
引いていく中で北川は馬の首を再び敵の方へ向けると小田切に向かって、
「我はここで討死する。會津に残してきた14歳になる我が子を頼む
これを形見に贈りたいので、受け取って欲しい」と猩々緋の陣羽織を脱ぎ、
小田切はこれを腰に挟んだ。北川はもう思い残すことは無い、と
追ってくる敵の中に馳せ行って切り死にした。永井にその話をしたが、
従者が驚いて見れば、永井の母衣に3つ、鞍にも刀による傷があった。
永井が今日は助けられたと一言礼を述べた。
小田切も敵3騎に囲まれて、あわや討たれんと見えたが、
青木がまた駆け寄ってきてくれて敵を追い払ってくれた』
非常に長い文章であり、意味も良くわからない所を無理矢理読んだため、合っているのかどうかすごく不安な訳ですが、とにかく前の所左衛門さんが伊達政宗と戦って、北川図書から形見を受け取った旨の内容なのかな、と思います。
ざっと読んだ感想として少し気になるのが、小説風というか、ビッグネームが出てくることで話をワクワクして読んでしまうというか、文章として出来上がっている感じがします。
特に前の所左衛門さんが格別な働きをしたということもなく、逆になぜここにこの話を家系図に載せてきたのかが分かりにくい。不思議な感じのする内容です。
なお、慶長6年とありますので、少なくとも1601年には成人されているような年齢だったということになります。
後の所左衛門
家系図的にみれば『小田切所左衛門親義』から線が引かれてありますので、前の所左衛門の息子の『小田切所左衛門』ということになります。子供が親の名前を襲名することもありますので、今はそこに焦点を当てず、とりあえずは読んでみましょう。
では、家系図をご覧ください。

小田切家家系図 (小田切家所蔵)
原文
『元和元年之春真田丸ヲ攻ル時
一説ニ加兵ト云フ後斉伊豆ト云ヒ
又道仁ト云武者修行シテ名高シ
長久手ニテ裸ノ働有松川之軍ニモ武功
加賀利常ニ仕ヘテ大阪之役ニ従軍ス
城際ニ押寄タルカ鉄炮ニ中リタリ
其弾ヲ取出シ脇ヘ並ビタル平野弥次左衛門ニ見セ
打笑物語スル態平生ノ如シ
又玉一ツ額ニ中リ取リ出シタルハ血流ル
冑ハ大事之物ヨ此冑ハ信玄ノ許ニ有リ候也
ト云フテ少シモヒルミタル色無シ
平野モ小田切モ相並ビタル武者振ヲ敵味方共誉アヘリ
平野ガ従者五右衛門ト者平野ガ矢面ニ立鉄炮頻リニ打掛シカバ
掠傷十八ヶ所迠負タル大剛ノ振舞ヲ
城中ヨリ高聲ニ称美シテ姓名ヲ承ラント云フ
平野即五郎右衛門ニ吾氏ヲ譲ヲ與ヘシカバ
五右衛大音声ガ平野弥次左衛ガ下人五右衛門ト云者
是迠付タル褒美ニ只今氏ヲ譲リ候
而平野五右衛門ト申ス也ト名乗ケル』
訳
『元和元年の春、真田丸を攻める時の事。
一説には加兵衛と名乗っていたが後に斉伊豆、
又、道仁と名乗っていたこともあった。武者修行で名高く、
長久手の戦いでは裸での戦場働きがあり、松川の戦いでも武功を上げていた。
加賀利常に仕えて大坂の陣にも従軍していた。
(その大坂の陣で)城の際まで寄せた時に鉄砲の弾が命中した。
(所左衛門は)その弾を取り出すと、脇に並んでいた平野弥次左衛門に見せ、
爆笑して話をしているその様は、極めて平静であった
しかし、またそうしているうちに弾が額に命中したので、取り出すと血が流れ出た。
「冑は大事よ」といい、「この冑は亡き武田信玄の許にあったものである」と
言って、少しもひるんでいない様子は見られなかった。
平野も小田切も大層な武者ぶりで並んでいるのを見て、敵味方ともに称えあった。
平野の従者で五右衛門というものが、(さすがに主の危険を感じ)矢面に立って鉄砲を打ち返すなどしたが、
かすり傷を18か所にも受けた大剛の振舞に、
城中から声高に称賛された。そして誰なのかと姓名を尋ねられた。
(下人とはいえ、豪の者に五右衛門だけの名前ではふさわしくないと思ったのか)
平野はすぐに五右衛門に平野の姓を与えた。
「これまでの働きに、只今姓を頂戴した。
すなわち、平野次右衛門の家臣平野五右衛門と申す」と名乗った』
さて、前の所左衛門さんのときもそうでしたが、後の所左衛門さんも大層な武功を上げたわけではない逸話が書かれています。
確かに大変に豪胆で大剛の武者らしい逸話ではありますが、そのあとの平野次右衛門の家来平野五右衛門の話を載せることで小田切の話がぼやけてしまっています。先にも書きましたが、やっぱり家系図とは先祖がどれだけ素晴らしい働きをした人物がいたのかを記載する履歴書であるのに、平野家の宣伝をしてあげているところに、かなりの違和感を感じざるを得ない記載です。
また、長久手の戦い~松川の戦い~元和元年の春に真田丸を攻めた、とありますので、後の所左衛門さんは少なくとも1584年~1601年~1615年の間には生きておられた、ということになります。
ふたりの所左衛門は同一人物?
さて、ここでこの二人の所左衛門さんは同一人物なのか、それとも同時代に活躍した親子なのか、それとも完全な赤の他人なのか、というところを検証したいと思います。
Google検索結果
まずは先の所左衛門さんの中に出てきたのは、『上杉景勝』と『伊達政宗』、そして『慶長6年』というキーワードでした。
この3つのキーワードにてググってみました。
すると出てきた最初の結果は、Wikipediaの「慶長出羽合戦」ですね。慶長5(1600)年の出来事ではありますが、徳川家康から上杉景勝に送られた大阪への呼び出しに対し、上杉景勝は一切応じようとしなかった。そのため上杉には謀反の疑いがあるとし、兵を向けた。いわゆる「会津征伐」ですね。この戦いでも伊達政宗と上杉景勝は戦いを繰り広げたのですが、こちらは慶長5年の話ですので、違いますね。
Google検索結果
そしてもう少し下に見てまいりますと、出てくるのが「松川合戦」「松川の戦い」というものです。
この松川の戦いこそが先の所左衛門さんの出陣した戦いだったのです。
WikiPediaには少々名前の違いはありますが、家系図にも記載されている人物が続々と出てきましたので、これは松川合戦で間違いのないと確信しました。

Wikipediaより引用
そして実はすでに、先の所左衛門さんと後の所左衛門さんをつなげるキーワードが堂々と出ておりました。
下の画像は後の所左衛門さんの家系図で、すでに見ていただいておりますが、マーカーを引いてもう一度掲載させていただきますね。
小田切家家系図 (小田切家所蔵)
わかりましたでしょうか?確かに「松川之軍」との記載があります……。
さて、これは一体どういうことなのでしょうか?
つまり、先の所左衛門さんは、1601年の松川の戦いに参加したということで、松川の戦いに焦点を置いた備考の記載がなされていましたが、後の所左衛門さんにも確かに松川の戦いに加わっていた記載があります。
これらの記述から導き出される仮定は、
①前の所左衛門さんと後の所左衛門さんは同一人物である
②どちらかの所左衛門さんの記述が間違っている。もしくはその両方
③同名の所左衛門さんが存在し、親子もしくは赤の他人の所左衛門さんたちである
①であれば、同一人物を親子関係として書くという間違い。②であれば人物の備考欄を書き間違えるという間違いで、いずれも家系図としてはあり得ない間違いです。③であれば、いずれの所左衛門さんの経歴としては問題ないが、備考欄に書く内容に疑問が残るという仮定です。
いずれの仮定にしても、家系図としては疑問符がつく内容となりますね。ただ、これ以上の調査は難しいと思われますので、この辺で打ち切りとさせてもらおうかと思います。
さて、所左衛門さんに関してはモヤモヤ感の残る、非常に残念な結果となりましたが、この結果は『小田切所左衛門親義』がご先祖にいなかったことを証明するものではなく、この家系図のすべてが偽りであることを証明したわけでもありません。『小田切所左衛門親義』と『小田切所左衛門』に親子関係の記載に誤りがあったことが判明しただけです。
家系図にはこれからまだまだ妻へとつながる血脈が続いていきます。それこそが今回の家系図の調査の骨子ですので、しっかりと調査を続けていこうと思います。
そして『小田切所左衛門親義』については、どういった人物だったのか、折を見てしっかりと調査を行いたいと思います。
では、本日はこれまで。読んでいただき、ありがとうございました。次回も張り切って調査していきます。