敵討について その1

~敵討の歴史~

はじめに

 敵討は歌舞伎や浄瑠璃、講談といった古典芸能の中で演じられてきた主要なカテゴリの一つです。中でも忠臣蔵は数多くの種類の演目が作られ、そのたびに人気を博してきました。
 主君や血縁者の復讐をするという行為は、日本書紀の時代から記録されている正しい行いとされ、鎌倉時代から江戸時代に至るまで法整備もしっかりと行われてきました。そのため、敵討は明治時代に入って禁止されるまで美徳と称され、武士だけに及ばず農民も敵討を行うようになっていきました。

 ここでは敵討がどう記録されているかを見ていきたいと思います。


記紀の時代

日本書紀 巻第十四 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 敵討の歴史は意外に古く、奈良時代に編纂されたとする日本書紀にはすでに『父の仇』という文字を見て取ることができます。

 年代は『安康天皇3年のこと』とありますので、西暦に直せば456年に眉輪王がその父である大草香皇子の仇を討つために安康天皇を殺害した、ことになります。

 また、その30年後には顕宗天皇が、その父の市辺押磐皇子の仇である雄略天皇の墓を暴いて遺恨を晴らそうとして仁賢天皇に相談をした、ということも書かれており、敵討は古くから一般的な概念として存在していたことが容易に想像できます。

 同時期に編纂されたとされる古事記にも、内容は異なれど仁賢天皇の言葉が載っています。 「唯、父王の仇に報い非る可からず」とあり、「父王の仇が何の報いも受けない訳にはいかない」、つまり「報いを受けるべきだ」と話したと書かれています。

 このことからも、敵を討つという考えが奈良時代の史料上からも存在したことを示していると思われます。


鎌倉時代

 鎌倉時代になりますと、日本三大敵討の一つとも数えられる『曽我物語』の基となりました曽我兄弟の敵討が起こります。

 父を殺された曽我兄弟が、父の敵である工藤祐経を討ち取ったとされる事件は、兄弟の17年にも及ぶ艱難辛苦の物語とともに民衆の心を打ったことと思われます。 当時、琵琶法師をはじめとするストーリーテラー、物語を伝えていく役割を担った人々が登場したことで、話は脚色されつつもたくさんの人たちに受け入れられました。

 曽我物語自体が持つ壮大なストーリー展開と兄弟が力を合わせて強大な敵に立ち向かっていく姿が感動を与えるとともに、その根底に流れる思想『親孝行』という考え方は為政者からも受け入れやすかったに違いありません。

 しかし、それを為政者が法文化するとなると、話は変わってきます。
 敵討=殺人を“良し”とすれば世の中が乱れる元となることは間違いなく、理由はどうあれ、敵討という制度を認める訳には行かなかったことでしょう。
 人情として行った殺人行為を認めるか、否か……。そこに大きな矛盾を抱え、苦悩があったと思いますが、ついに北条泰時の時代に御成敗式目(貞永式目)において法文化を行っております。

御成敗式目 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 『次に、或は子、或は孫、父祖の敵を殺害する に 於ては、父祖たとへ相知らずと雖も、その罪に処せらるべし。父祖の憤りを散ぜんがため、忽ち宿意を遂ぐる故なり。』と書かれています。

 これを訳しますと、「子や孫、あるいは先祖の敵と称して人を殺害した場合は、その父や祖父がたとえそのことを知らなくても同罪とする」となります。つまり敵討によって、父祖の憤りを晴らすこととなるから、その本人だけでなく親や祖父に至るまで罪を負わせる条項が書かれており、為政者としては敵討を禁じる方向へと舵を切っています。

 この条項に関してみれば随分と厳しいとは思われますが、時の権力者であった源頼朝にさえ刀を向けることもある敵討などを良しとすれば、敵討と称して今度は北条執権家へ刀を向けることも認めたことと同義になってしまうことを恐れていたのでしょう。


室町・戦国時代

 鎌倉時代を経て、室町時代・戦国期に入ると、領国経営の観点から大名が独自に法律(分国法)を制定するようになってきます。今川家の「今川仮名目録」、武田家の「甲州法度之次第」などがその一例ですが、朝倉家や六角家、長曾我部家といった大名も制定をしております。

 戦国大名としてみなさんご存じの伊達政宗の曽祖父にあたる人物に、伊達稙宗という方がおられました。この人は『塵芥集』という分国法を制定しております。条文が、分国法の中でも最大の171条項にも及んでおり、夫婦喧嘩や土地に関する揉め事、戦場における同士討ちの取り扱いなど、当時起こりえる問題を事細かに法文化しています。

 そこには『親子兄弟の敵たり共、みだりに打つべからず』と定めています。まずは親子兄弟の敵であろうと、敵討を行うことは禁止すると書かれています。
 しかし、その後『ただし件の敵人成敗終わっての後は御領中へ徘徊の時むて人走り合い、親の敵と云い、子の敵と云い、打つ事越度有るべからず』とあり、処分の済んだ敵持ちに対し、領内をうろついている場合、敵討に失敗することがないように、と敵討を容認するような文章も残っています。

 塵芥集の編纂時期の詳細はわかりませんが、応仁の乱が発生して次第に世相が乱れていくと、少々の荒っぽい事柄も頼もしさをもって許されるようになっていたのでしょうか。このあたりの世相の変化が見られるのも面白いですね。

仙台叢書.第18 (国立国会図書館デジタルコレクション)


江戸時代

 さて、江戸時代に入り、敵討は殺人ではなく、私刑罰として公に認められることとなります。つまり敵討を良し、とする世相となってまいります。

 ところが講談や歌舞伎、その他の書籍・史料にはたくさんの敵討の事例が載っているが、実は江戸時代の中で敵討に関して書かれた法令は少ない。
 『藤岡屋日記』という江戸末期に編纂された編年体でまとめられた書物に、「寛永16年7月15日に四条河原で敵討があり、その後法令が発せられて、今後は敵討をする際は届け出なければならない」と京都所司代であった板倉重宗が令を発したと書いてあるそうです。
 また、『天享吾妻鑑』や『正応承明記』には同じく板倉重宗が敵討を行いたいという者に対して、「禁中の外在々に於何方も其意趣を可遂」という書付を与えた、と平出鏗二郎氏の著作『敵討』に記されています。「御所以外の場所において、敵討を遂げるように」と板倉重宗が書付を与えたことになっているが、実際にその書付は残っていないようです。

 『御遺状御宝蔵入百ヶ条』とか『徳川成憲百箇条』などという名前で現代に残っている、徳川家康が遺したとされる100の言葉の中にも、敵討に関する一文が記されています。

 しかし、先に書いた『藤岡屋日記』は江戸末期に書かれたものであるし、『御遺状御宝蔵入百ヶ条』や『徳川成憲百箇条』は徳川家康の言葉ではなく、後世の作り話であることもわかっており、どこまで本当のことが書かれているか分からない、というのが真実のようです。

板倉政要 三 四 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 ここでもう一つ紹介しておかなくてはならない史料があります。成立年代がはっきりしない書物ではありますが、先に書いた板倉重宗とその父板倉勝重が京都所司代を務めた時代(1601~1654)のことを本にした『板倉政要』という書物があります。
 ここにははっきりと敵討についての取り決めが書かれています。まず一つには「親の敵討であるならば、洛中洛外問わず討っても構わない」と書かれています。その後、「ただし、禁裏と仙洞御所、仏閣の近所では行わないように」との注意書きがあります。

 江戸時代で発せられた法令で、はっきりしているのはこの一条文のみであると書かれているのですが、『板倉政要』は元禄期に書かれたもので、公明正大な奉行の存在を待ち望んだことからまとめられた史料、ともあるので、先の『藤岡屋日記』や『御遺状御宝蔵入百ヶ条』、『徳川成憲百箇条』といった類の史料とあまり変わりはないことになります。

 ただし、ここに挙げさせていただいた資料のどれにも共通して書かれていることは「敵討は良し」とすること、そして「禁裏や仏閣などではしてはならない」ということで、一定のルールをも受けたうえで敵討を容認していたのではないかと云うことを窺い知ることができます。『板倉政要』の中の「親の敵討であるならば」という内容や、『藤岡屋日記』に書かれてある「届け出れば、敵討を許す」という内容もそのルールの一つなのでしょう。


明治時代

 明治時代に入り、ようやく敵討は全面的な禁止を見ることとなります。

 アメリカをはじめとする海外からの脅威は江戸幕府を滅亡に追い込み、代わって薩長を中心にした新たな政治体制を生み出すこととなりました。明治政府は、武家政権を脱却して西洋文明に追いつくことが何よりの急務となりました。
 廃藩置県や地租改正、徴兵制度などの制度を整える一方、刑罰権を独占して公刑罰の制度を確立すると同時に私刑罰である敵討の制度も廃止することとなりました。

法令全書. 明治6年 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 画像は少し見にくいですが、太政官布告第37号において以下のように書かれています。

 「人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固擅殺ノ罪ヲ免レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往々有之甚以不相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルヽ者於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事」とあります。

 つまり、「殺人は国家の大罪で、殺したものを罰することは政府の権限である。古来より父兄のために仇を討つ事は子孫の義務とする風習がある。しかし止むを得ない至情といえども、私憤を以て禁を破った場合は殺人の罪を免れ得ない……」と、どのような事情があろうとも敵討を禁止するという布告を行いました。これにより一切の敵討はなくなったのかというとそうではなく、「遺恨あり 明治十三年 最後の仇討」と題したドラマでも広く紹介された臼井六郎による敵討は、幕末に暗殺された父親の敵を13年の後に討ったことで解決を見ましたが、この太政官布告のために懲役刑に処せられることとなりました。
 またこれにより、古代から連綿と続いた風俗としての最後の「敵討」となりました。

 更新日:2022年3月13日


参考資料