敵討事件簿 その1

~黒田四郎兵衛敵討始末~

はじめに

 敵討は歌舞伎や浄瑠璃、講談といった古典芸能の中で演じられてきた主要なカテゴリの一つです。観客の興味を得るため、時には脚色を行うこともあり、それがあたかも真実であるかのように扱われることもしばしばあったことでしょう。
 今、伝わっている物語はどこまで真実で、どこからが脚色なのか。今となっては分からないことだらけかもしれません。

 この事件簿シリーズでは、過去に起こった敵討事件をわかりやすくご紹介することを目指してお話していこうかと思います。

 さて、本日のお話はどんな敵討のドラマが待ち構えてますでしょうか?

事件概要

 本日のお話は京都は山科区の日岡峠で起こった、通称「黒田四郎兵衛敵討始末」のお話でございます。今は山科区と申しましても、少し前までは宇治郡と呼んでいたらしく、洛中からは少し外れた場所でございました。粟田口の刑場跡も近くにある場所ですので、夜になれば薄暗く、人々からは気持ち悪く思われていた場所であったのかもしれません。
 とは申せ、道は大津から江戸へとつながる東海道の大通りでもあったので、人の動きは絶えずあったに違いありません。

 急な坂がある難所として知られていたことから、道路を修復した碑がある以外は、敵討ちがあったことを示すような碑や看板がなさそうで、後世に伝えられることもなく消え去っていく物語の一つなのかもしれませんね。
 ま、そうはさせませんがね。

呼び名(通称) 黒田四郎兵衛敵討始末
敵討発生日 寛永6年5月1日 事件発生日 寛永4年1月20日
西暦 1629年 西暦 1627年
敵討までの期間 2年4か月
敵討場所 山城国宇治郡日岡峠 事件場所 越前国若狭小浜大橋
発端事件の
被害者
尼子長兵衛
(浪人)
敵持ち 二宮権左衛門
(近江の代官)
間柄 他人
助太刀 岡地大三郎
(士)
間柄 他人
討ち手 黒田四郎兵衛
(士)
間柄
助太刀 不明 間柄 不明
成否 成就
処分 二宮権左衛門(討死)
岡地大三郎(討死)
黒田四郎兵衛(京都所司代:お咎め無し)(備前池田藩:知行加増 千石 → 千五百石)
記載史料 『新版日本敵討』千葉亀雄 天人社 (P202-203)
『歴史読本』第42巻第1号 1997年1月号 新人物往来社(P200)
特記 尼子長兵衛の叔父にあたる尼子蔵人と、二宮権左衛門と岡地大三郎は同じ若狭国小浜9万石京極若狭守忠高の家中。二宮権左衛門は京極忠高の姪婿という関係でもある。
備考 特になし

事件勃発

 事件は寛永4年となっておりますので、西暦に直せば1627年のことです。1627年から見て4年前の元和9年には徳川家光が将軍に就任し、2年後の寛永6年には紫衣事件、寛永14年には島原の乱といった歴史的事件が起こった、戦国の殺伐とした雰囲気から次第に平和な時代へ向かっていく過渡期とでもいうのでしょうか、そんな時代のお話です。

 若狭国小浜とありますので、現在の福井県小浜市を治めておりました京極忠高の家臣に尼子蔵人という人物がおりました。この蔵人の屋敷に厄介になっていましたのが甥の尼子長兵衛で、事情はわかりませんが、事件当時は浪人という身分でして、叔父の所へ転がり込んでいたのです。

 さて1月20日のこと。この長兵衛が小浜の大橋を渡っていた折、向こうから2500石取りの二宮権左衛門が岡地大三郎を引き連れてやってきた。しかしすれ違ったときに何かあったのか、喧嘩が始まったとあります。何があったのかは記録には残っていないため、想像でしかないが、同僚の叔父蔵人の悪口でも言ったのではなかろうか。

 何はともあれ、お互い刀を取っての喧嘩が始まった。というか、もう果し合いですね。

 長兵衛と権左衛門が斬り合いを始めるが、当然大三郎は権左衛門を助けるため、卑怯にも槍を持ち出して長兵衛を挟み撃ちにしようとする。
 二人を相手に戦うこととなったが、それでも腕に覚えのある長兵衛はひらりとかわしながら相手に傷を与える。しかし、多勢に無勢。長兵衛はついに討たれ、大橋の上で絶命してしまった。

 戦いを終えた二人は勝ったとは云え、二人掛かりで戦った卑怯なやり方。しかも相手は浪人と云えども、城下で斬り合いの喧嘩をして、ただで済むはずがない。我に返って慌てた二人はそのまま藩を捨てて逐電してしまった。

小浜市の歴史と文化を守る市民の会 小浜城 江戸末期頃
写真掲載許可済

 城下での人情事件はたちまち叔父の尼子蔵人の知るところとなり、蔵人は憤慨することひとしきりだったが、敵討の大原則でもある目上(叔父)のものが目下(甥)の敵討に出る訳にはいきませんでした。しからばと、喧嘩両成敗により両名の処分を、と主君に迫ったが、権左衛門は主君忠高の姪婿という関係上、容易に首を縦に振ろうともしなかったのです。

 権左衛門と大三郎の両名が、酒井雅楽頭の家中の某という人物に、大津で匿われているという情報を蔵人に教えてくれる者もいたが、主君が動かなければどうすることもできないのが奉公人の辛さ。そうこうしている間にほとぼりも覚めてしまい、蔵人は泣き寝入りをする以外なくなってしまったのです。

 そしていろんな人の口の端にも上がらなくなりそうになっていくところを、あきらめずに敵討を行おうとする侍が備前国岡山にいたのです。


敵討探索

 侍の名は黒田四郎兵衛で、殺された尼子長兵衛の甥にあたる人物です。四郎兵衛は備前国池田忠継に仕えていたが、叔父の横死を伝え聞くや否や、叔父の無念を思い、何とかして仇敵を討ちたいと考えた。ちょうど役向きで京都に行くことも決まっていたから、非常に都合も良かったと言えましょう。京都と大津であれば、馬で数刻の距離だったでしょうから、まさに天の配剤と言えた。

 京都に到着した四郎兵衛は、まず二人が匿われているという大津の蔵元を見張ることとしたが、酒井雅楽頭家の警備は大層なもので近寄ることさえできない。このままでは仇敵を討つどころか、権左衛門と大三郎の両名に接触することすらできそうにありません。しかも両名の顔すらわからない状態だったため、道端で会っても敵討を始めることすらできない。
 京都での役向きが何かまでは伝わっていないが、そちらを放っておくわけにも行かず、四郎兵衛は仕方なくいったん大津を離れることとした。しかし、大津において全く成果がなかったわけではなかった。酒井家出入りの商人によれば、二人は匿われているものの、時折京都に出かけていくことがあるとの情報を得たのだった。大津では手出しができなくとも、京都なら酒井の護衛も付いてはいまいと考え、四郎兵衛は二人の顔を知る商人に金を握らせると、毎日仕事が終わればすぐに二人して京都の町を探索していました。

 そんなある日の事。二人の元へ、数日前に三十三間堂の通し矢を仇敵である両名が見物に来ていたのを見た者がいたとの情報を持ち込まれた。

 三十三間堂の通し矢は正月の京都の大きな行事の一つである。この様子であれば、5月に行われる上賀茂神社の賀茂競馬足汰式(かもくらべうまあしそろえしき)にも見物に来るのではないかと見当をつけ、その日が来るのを心待ちにしていました。

浮繪和國景跡京都三拾三軒堂之図 画:哥川豊春 (Wikipedia)


敵討決行

 平安時代に始まった賀茂競馬足汰式の儀式は、江戸時代でも大変な評判で、行われる前後となれば京の町は大変な人込みとなります。
 人込みを避けつつも、確実に仇敵を探して果し合いに持ち込む。そのために黒田四郎兵衛は一計を案じ、大津から京へ伸びる東海道のどこかで待ち伏せを行うこととした。そして四郎兵衛はいまだ、二人の顔を見知ってはいないので、例の商人を引き連れて京都の入口とも云うべき日ノ岡峠で待ち伏せを行うこととなったのです。

 陽も昇らないうちから出かけた四郎兵衛と商人は人の流れとは逆方向に向かって歩いていく。そして日ノ岡峠に到着すると、茶屋の中で向こうからやってくる人の顔をさりげなく確認しながら待ち構える。
 日ノ岡峠は急な坂でも有名な場所だったため、馬で駆けてきた人も馬を降りて歩いて登っていくため、落ち着いて顔を確認することができた。日ノ岡峠を選んだのはそういった意味合いがあったのではないだろうか。

 しかし待てど暮らせど、仇敵の両名はやってくる様子がない。賀茂競馬足汰式も既に終わりを迎える時刻となっていた。今回は見に来るのを諦めたのか、それとも待ち伏せていることがバレたのか。仕方なく、四郎兵衛は仇敵の顔を知る商人を日ノ岡峠から京都よりの粟田口へ向かわせ、帰路に就く仇敵を見張らせることにした。

 すると、遂に騎馬姿の両人が草履取りの若党を連れて大津へ向かっているとの連絡がもたらされ、四郎兵衛はすわこそとばかりに立ち上がると、心を落ち着けながら茶屋の格子から様子を伺う。

 坂がきついため、ゆったりとした歩みの馬に乗ったまま二人は談笑している。おそらく、今日の賀茂競馬足汰式の話に花が咲いていたのであろう。自分が狙われていることなど知る由もなく、茶屋の前を通り過ぎたその時だった。
 四郎兵衛は二人の後ろから声も立てずに刀を持って切りかかった。

 大三郎は何やら後ろの方から誰かが駆けてくるのを察知し振り返ると、刀を手にした侍が向かってくる。
 さては、とすぐに気が付いた大三郎は刀を抜くと斬り合ったが、二太刀で斬り倒された。

 すぐに四郎兵衛は向き直ると、こちらに向かってくる権左衛門と斬り合いが始まるが、こちらも五六合斬り結んだかと思うと難なく権左衛門を討ち取ったのでした。


処分

 敵討ちを終えた黒田四郎兵衛は、そのまま京都所司代の調べを受けたとありますが、調べにおいて何もお咎めを受けることはなかったと記録にあります。

 四郎兵衛はすぐに取り調べから解放されると岡山備前藩池田忠継のもとへ呼び出されることとはなりますが、もとより天晴れな敵討。池田家は戦国から武名で通ったお家柄であることからも、忠継の機嫌がすこぶる良く、知行千石に五百石を加増されて千五百石にて番頭を勤めることとなったとあります。

2015年3月28日 岡山城撮影


考察

 さて、武士にはかたき討ちの手順とも云うべきルールがあります。そのルールを逸脱すれば、当然お咎めを受ける訳です。誰でも彼でも「親の敵」といって斬りつけて良いわけではありません。簡単に書きますが、以下のようなことがあります。④は列挙はしましたが、そのころの世間的に常識だったと思われる、暗黙のルールです。
 ①敵討を行う際は主君への届け出が必要
 ②他領へ仇敵を探して出る場合は、主君から幕府三奉行へ届け出を出す
 ③届け出を受けて帳面に記録し、許可状を受け取る
 ④主君に迷惑が掛からぬよう、浪人となる
 ⑤仇敵を探し出し、現地の役人に許可を取る
 ⑥現地の役人は仇敵を捕らえたうえで、討手と仇敵の双方を留め置く
 ⑦現地の役人から幕府三奉行へ敵討の届け出の確認を行う
 ⑧確認が取れたら、現地に竹矢来などを組み、双方を対決させる

 本来は、このような手順をいちいち踏まないと、敵討は行ってはいけない決まりとなっている。ただ、仇敵を前にそんな悠長なこともしておられず、いきなり斬り合いになることもあったようです。
 よく時代劇とかで見る竹矢来を組んで、その中で果し合いを行っているシーンは⑧の段階までいった際にされていたようです。
 では、今回の敵討をこの目線で検証してみましょう。

①主君への届け出の有無  届け出は主君に対し行うもので、今回であれば黒田四郎兵衛が主君池田忠継にたいして行ったかどうかです。
 はっきりとした資料は残っていませんが、京都での役向きを行っていたような書き方ですので、届け出ていない可能性もありますが、京都所司代の調べに対し、届け出がなければ処罰されているはずですので、恐らくどこかのタイミングで提出していた可能性があります。
②幕府への届け出  事件は小浜藩、仇敵は大津ですので、届け出は必要ですが、氏家幹人氏の著書『かたき討ち 復讐の作法』によると届け出の制度ができたのは1660年ごろと考えられる、とのことですので、この事件のころは届け出を行っていなかったかもしれません ×
③許可状の有無  ③にも記載しましたが、恐らく届け出制度がないため、許可状自体がなかったのではないかと思われます。 ×
④主君への暇  黒田四郎兵衛が岡山藩を致仕していたかどうかですが、今回は5月の賀茂競馬足汰式に仇敵がやってくるという確証はなかったため、もしかすると暇は出していない可能性があります。
 もしくは奉公させながら、敵討探索を許可していたのかもしれませんね。
×
⑤仇敵の所在地での届け出 仇敵が居住しているのは大津ですので、提出先は大津の役人となります。ここに提出を行っていたかどうか、かなり不明ですね。京都を探索などしているので、出していないかと思われます。 ×
⑥仇敵の逮捕 状況を見ると、明らかに突然斬りつけているわけですから、許可が出ていなかったのは明白ですね。 ×
⑦三奉行への届け出確認 届け出を出していない可能性が高いので、恐らく確認も行っていないはず。 ×
⑧役人監視のもと双方対決 状況を見ると、明らかに突然斬りつけているわけですから、許可が出ていなかったのは明白ですね。 ×

 検証してみましたが、ほぼほぼルールには則っていないのではないか、という疑いも出てきますが、そもそもルールができたのは1660年ごろかもしれないので、これらのルールに則る必要がなかったのかもしれませんね。京都所司代の調べでお咎めがなかったのは、主君池田公からの敵討許可状のような書付を持っていたのかもしれませんね。

 さて、事件簿のその1ということで、私も力が入りましたが、今後はどんどん手を抜いていきますので、これからもよろしくお願いいたします。

 更新日:2022年7月5日


参考資料