敵討事件簿 その2
~和泉国日根郡境の橋 廣井磐之助の敵討~
はじめに
敵討は歌舞伎や浄瑠璃、講談といった古典芸能の中で演じられてきた主要なカテゴリの一つです。観客の興味を得るため、時には脚色を行うこともあり、それがあたかも真実であるかのように扱われることもしばしばあったことでしょう。
今、伝わっている物語はどこまで真実で、どこからが脚色なのか。今となっては分からないことだらけかもしれません。
この事件簿シリーズでは、過去に起こった敵討事件をわかりやすくご紹介することを目指してお話していこうかと思います。
さて、今回のお話はどんな恨みを抱えていたのでしょうか?
事件概要
今回のお話は土佐高知からは廣井磐之助の敵討をご紹介したいと思います。
坂本龍馬や勝海舟といったビッグネームの出てくるこの敵討は講談や小説の格好のネタになっているのでは、と思いきや、探してみると意外と無い。
あまりにもビッグネーム過ぎる坂本龍馬にスポットが当たり、廣井磐之助に目を向ける人がいなかったのかもしれませんね。
さて、事件のあった紀州と泉州との境にあった橋とありますので、どこかと探し回りました。
日根郡境の橋とありますので、日根郡(現泉佐野、貝塚、泉南、阪南、泉南郡熊取町などなど)と紀州の境ですから、かなりの距離があります。
しかし、おそらく紀州街道上のどこかかな?と探し出すと、あっという間に見つかりました。
その名も「境橋」でした。そのままですね。
現在は日本最後の敵討の現場として、石碑も立っており、認知度の高さを知ることができます。
ま、少し気がかりは「日本最後の」敵討という、「最後」という言葉ですね。一般的に日本最後の敵討は明治13年12月17日の臼井六郎の事件が一般的になりつつあるので、何を以て日本最後の、という言葉をつけているのか。
後々わかってきますかね?
| 呼び名(通称) | 和泉国日根郡境の橋 廣井磐之助の敵討 | ||
|---|---|---|---|
| 敵討発生日 | 文久3年6月2日 | 事件発生日 | 安政2年10月2日 |
| 西暦 | 1863年 | 西暦 | 1855年 |
| 敵討までの期間 | 8年4か月 | ||
| 敵討場所 | 和泉国日根郡境の橋 | 事件場所 | 土佐国浦戸の海岸 |
| 発端事件の 被害者 | 廣井大六 | ||
| 敵持ち | 棚橋三郎 (上士) |
間柄 | 同僚 |
| 助太刀 | なし | 間柄 | なし |
| 討ち手 | 廣井磐之助 (土佐藩士、下士) |
間柄 | 息子 |
| 助太刀 | なし | 間柄 | なし |
| 成否 | 成就 | ||
| 処分 | 棚橋三郎(討死) | ||
| 廣井磐之助(幕府:お咎めなし)(土佐山内家:親衛の士に取立) | |||
| 記載史料 | ★『新版日本敵討』千葉亀雄 天人社 (P467-471) 『歴史読本』第42巻第1号 1997年1月号 新人物往来社(P200) 『敵討』平出鏗二郎 中公文庫(P209-214) |
||
| 特記 | 勝海舟を始め、勝海舟塾塾頭佐藤与之助ら数名が棚橋三郎の情報集めに協力。当日佐藤与之助らも現場にいて見届け人となっていた。 | ||
| 備考 | 廣井磐之助は慶應元(1866)年に27歳で病死 | ||
事件勃発
高知県桂浜(2019年9月14日 管理者撮影)
事件の勃発は土佐高知とありますので、現在の高知県で起こった事件になります。
土佐20万石の藩主山内土佐守豊信の家臣に廣井大六という者がおりました。
この大六は大変に漁が大好きであったと伝えられておりますが、事件の起こった安政2(1855)年10月2日も船に乗って浦戸湾へ漁に出たと言います。
漁を終え、岸に戻ってきたころには陽も傾き、日暮れを迎えていました。船をはしけに留めようとしていると、後ろから同僚の棚橋三郎が近寄ってきて大六に話しかけてきました。
「おお、良いところへ来た。大六。向こう岸まで渡してはくれないか」
どこかで酒をたらふく飲んで来たのであろう、見ればかなりの酩酊状態で、足元もおぼつかない。当然、船に乗れば海に落ちる可能性も高いが、なにより乗せる道理がない。
坂本龍馬の小説やドラマなどでご存じの方は多いであろうが、土佐では身分の上下に厳しい。特に関ヶ原の合戦以降に入国してきた山内家臣を上士、それ以前から土着している長曾我部家臣を下士とし、その間には絶対の差別を設けたのです。三郎は上士で、大六は下士であるため、大六は三郎の命令は絶対であった。
「いや、しかし。三郎殿はかなり酒を召されているご様子。このまま沖へ出れば海へ落ちてしまいます。やめられた方が良い。」
「構わん。わしがこれごときの酒で酔いはせん。乗せろと言ったら乗せるんだ。」
「いや、しかし。渡しであれば、もう少し先に行けばございます。」
このようなやり取りがあったかは分かりませんが、三郎の要求に大六は拒否をしていたたため、三郎はその態度に怒り、ついには刀を抜いて脅しに掛かったのです。
驚いた大六は慌てて船に戻り、沖へ逃げようとする。しかし三郎は足をふらつかせながら追いかけて、船に乗り移ろうとする。大きくない船の上で二人はもみ合う形で渡せ、渡さないの言い合いが始まる。もみ合うたびに船は大きく揺れる。そしてついに大六のみがドボンと海に投げ出され、そのまま命を落としてしまったのです。
事件の結末
さて、死亡した大六には熊太郎という一人息子がおりまして、事件当日は主君山内家の普請所のあった仁野村へ出かけておりました。事件を聞きつけるやいなや、驚いて慌てて帰ったのですが、帰宅したときにはすでに父は亡くなっておりました。
死に目に会えなかった悲しみはいかほどであったでしょう。愕然としながらも、父の死んだときの状況を周りに問いかけると、当時を知った親類の者が、三郎のせいで亡くなったのだと教えてくれる者がいた。
いきさつを知った熊太郎は怒り、その親類とともに三郎宅へ押しかけるも、三郎は知らぬ存ぜぬの一点張り。
見たものがおると問い詰めるも、あくまで知らぬ存ぜぬで通されるため、それ以上どうすることもできなくなった。
熊太郎はむなしく帰宅し、大六の葬儀を執り行うこととなった。
悪いのは三郎であったものの、水に落ちて死んだのは、武士として不心得である、となったのであろうか。廣井家は断絶となり、熊太郎は廣井宗家に引き取られていった。
しかし、城下に三郎とのいきさつが伝えられると、俄然三郎の立場は悪くなり、山内家としても放っておくわけにもいかなくなり、ついに三郎を牢屋に繋ぐこととなった。
ここに至り覚悟を決めたのか、三郎は全てを白状して罪を認めたことにより、三郎は禄のすべてを召し上げられ、土佐追放という処分になった。
藩としては、これにより一応の幕引きを図ったのでしょうね。
熊太郎はこの事件以来、日夜剣術の稽古に励むようになり、その様子を伝え聞いた山内豊久は熊太郎の心がけは立派であるということから、磐之助の名を与え、廣井熊太郎改め、廣井磐之助と名乗ることとなった。
磐之助の名を貰おうが、磐之助の心の内では未だ同じ空の下に生きながらえている三郎を考えない日はなく、いつか父の仇を報じてやろうとしていた。
しかし、それを行うには国を出るしか方法は無い。国を出ることは脱藩行為となり、親類にも罪が及ぶ重大犯罪であった。自分を引き取ってくれた老いた義母を放って行くことはできない。かといって義母を養っていけば、父の敵は雲の彼方に消え去って、消息すら分からなくなるかもしれないのだ。
磐之助は大いに悩んだに違いない。
高知城(2009年4月29日 管理者撮影)
磐之助は悩みに悩んだ末、遂に脱藩を決意する。
母はもちろんの事、周りの親族や友人にも脱藩を考えていることをおくびにも見せずに、安政6(1859)年12月4日の夜、母が寝付いたのを確認すると、用意してあった書置きをそっと残すと一路国境を目指して駆けていった。
しかし、この夜は運が悪かったと言えよう。
前日に降り積もった雪が地面を覆っていたため、磐之助が番所を避けて通ろうとした脇道にしっかりと足跡が残ってしまっていたのです。
見回りを行っていた番所の人間が不審に思い、すぐに追手が差し向けられることとなった。
番所をそれた脇道は普段誰も通らない道なき道。さらに前日の雪が磐之助の足取りを遅らせていく。次第に迫りくる追手に、ついに磐之助は捕らえられてしまいます。
「脱藩をしようと思っていたのか」
「いえ、決してそのようなことは。母の病を治そうと、あの山に生える薬草を取りに行ったのでございます。」
「嘘を申すな。薬草など昼間に取りに行けばよい話ではないか。」
「雪の下にあって、その寒さに耐えている薬草は効果が増すのだと聞いたからでございます。」
このようなやり取りがあったのか無かったのか。はたまた捕らえられた場所がまだまだ高知城からほど遠くない山の中だったことから、脱藩と決めつけるには確証がなかったのか。はたまたうまく言い訳をしたことが功を奏したのか、磐之助は揚屋(牢屋)に入れられることもなく、親類預けとなった。
翌年正月から本格的に吟味が開始され、再三にわたり脱藩の罪を認めさせようとしたのだが、磐之助は一切認めず、遂に3月28日に御城下四ヶ村禁足という処分を受け、神田村吉野に蟄居することとなった。
神田村吉野は、島流しといった性格のある場所ではない。過去にはどういった地勢だったのか不明ですが、今では高知市の一部で、高知城から鏡川をわたった先にあり、目の届く範囲と言えるでしょう。
(ここからは推測です)恐らくまた脱藩を企てようとすると、鏡川を渡り、さらに高知城下を通ってしか行けないような辺鄙な所だったのではないでしょうか?
さて蟄居となってから、何もすることもない磐之助は槍術の鍛錬をさらに重ねていると、3年経った文久2(1862)年冬のある日、ついに蟄居を解かれて義母のもとへと帰ることができるようになった。磐之助はそのまま藩に槍術修行での諸国遍歴を申し出ると、翌年には許可が降り、同年2月27日には土佐藩を出立することとなった。
敵の探索と決闘
探索に出た文久3(1863)年は、すでに父廣井大六が亡くなってから8年が経過しており、敵棚橋三郎の事件など覚えている者も少なくなり、国外追放となった三郎がどうしているかなど、追跡を行う上での情報を得ることがかなり困難となっていた。
伊予、讃岐、京都、大阪、また京都と渡り歩いてはみたが、決定的な情報が得られずにまた四国へ戻ろうと、讃岐を通り、伊予三島へやってきたときの事だった。
伊予三島で三郎がどこかへ行っていたが、去年の9月ごろに伊予へ帰ってきているとの情報がようやく得られた。三島を通り過ぎていったとのことだったので、そこから西条、小松、今治、松山と聞いて回ったが、どこに行ったか、新たな情報を得ることができなくなった。しかも運悪く道後温泉でスリに会い、一文無しとなってしまった。
仕方なく、安芸へ渡るとそのまま物乞いをしながら、何とか大阪へとたどり着いたが、全く無為に1年が流れていった。
しかし戻った大阪で、この敵討を行う上での強力な後ろ盾を得ることとなり、一気に情勢が変化することとなる。
資料とした本には徳川家茂上洛とありますが、おそらく時期的に再上洛を果たした元治元年(1864)1月のこと。前年に上洛し孝明天皇に拝謁を行った第14代将軍徳川家茂だったが、約束をした攘夷を実施しないことを理由に朝廷から再上洛を求められ、家茂は再び京・大阪の地へやってきていた。この際のお伴として大阪に来ていたのが、軍艦奉行並だった勝海舟(勝麟太郎)だった。
勝海舟の人柄を聞いていた磐之助は面会を申し出て、何かと手助けを請えないかと考えていた。当然すぐには会えないと思っていたところ、取次を行っていたのが坂本龍馬や高松太郎といった土佐脱藩の同郷の友だったのである。
坂本龍馬から面会を頼まれた勝海舟は直ぐに磐之助に会うと、その志に感じ入ったのだろうか、その場で文を書き与えたとされる。
『
一、拙者門人広井磐之助父之仇有之者ニテ右仇見当次第為相果候間万事御法通御作法可被下候以上
御軍艦奉行
勝 麟太郎 判
各国役人中
』
※この当時は軍艦奉行並であり、軍艦奉行になったのは5月の事。また、自身の役職に御をつけているのが気になりますが、真偽は置いておきます。
一応訳してみますと、『勝海舟の門人である広井磐之助は父の敵を有している者で、右の敵を見つけ次第果し合いを行うため、法に則り、ご作法通り対処願います』といったことが記載されています。
その場で門人に加えた可能性もありますが、軍艦奉行の名前で各国役人宛のこの文があれば、敵討後に地方役人が捕まえたところで粗略な扱いを受けないことは予想できますので、槍術修業と言って藩をだまして国を出てきた磐之助は、敵討許可状も持っておらず、ここで大きな後ろ盾を得たこととなった。
その後磐之助は大阪で人足に混じって三郎の行方を探し続けた。すると今は堺にいるという情報が入り、堺に行ってみると今度は紀州に行ったとの情報が入った。磐之助はがっかりしたものの、明らかに三郎の影を掴んでおり、確実にもう少しのところまで来ているという実感があったに違いない。
紀州へ向かう決意をした磐之助は、世話になった勝海舟に会いに行ったが、あいにく京都を出かけており会えなかった。仕方なく塾頭の佐藤与之輔、新宮馬之助、高松太郎らに事情を話すと、明日勝海舟が戻ったあとに磐之助を追いかけるので先に出立しておいてくれ、という話になった。
磐之助はもとより一人で立つつもりであったから、予定通りそのまま紀州の加田浦へと向かった。
磐之助は加田浦へ向かったが三郎を見つけることは出来ず、またもや空振りかと思ったが、どうやら三郎は何らかの咎で紀州藩に捕らえられたことが判明した。後から追いついた佐藤与之輔とともに和歌山城下に入り情報を集めると、捕まった三郎はそのまま近日中に国外追放になることが判明した。
磐之助らはその時こそが絶好の機会だと思い、紀州藩の国境を監視することにした。
そしてついに6月2日昼九つとありますので、正午ごろに熊野街道を北に向かってくる行列を見かけた磐之助はそのまま見物客にまぎれて眺めていた。
遠目に役人に引かれている人物の顔を見れば、逃亡生活で疲れ果て、痩せてはいるが、間違いなく棚橋三郎であった。はやる気持ちを抑え、役人の手から追放される時を待った。
そしてついに国境の橋の上で役人は三郎の縄をとくと、そのまま背中を押すようにして文字通り紀州より追い出した。三郎は手首に巻かれていた縄の跡をなでるようにしながら、集まった見物客の中を通りぬけていこうとしたその時だった。
群衆の中から飛び出した磐之助は名乗りを上げ、父大六の敵であることを告げると、群衆は歓声を上げてその行方を見守る。
しかし三郎は腰に刀も持たず、丸腰の状態であった。磐之助も丸腰の相手を討つわけにも行かないので、磐之助は持参していた刀を一振り渡し、勝負に応じるよう促す。
ことここに至って、逃げる訳にもいかなくなった三郎は、磐之助と対峙した。
坂本竜馬海援隊始末記(国立国会図書館 デジタルコレクションより)
※土州吉川岩蔵が磐之助、佐藤楠太郎は三郎の変名
片や捕縛から解き放たれた者と、片や父の敵と待ち構えていた者との気合の差は歴然で、上の絵を書いた乾十郎の言葉を借ります。
『快刀快刀並に妙。三度めに首級を取、助勢の士一同凱歌を唱。山号谷応じ、凄々愴々、殊に大風雨流車軸、見物人之市人凡四五千、山に隘谷に満つ』
刀を合わせるが、その見事なまでの腕前に三郎は三合目にして首を討たれた、とあります。その後の4~5千人の見物人がいたかどうかは別にして、あっという間に討ち取ったようである。
処分
この後磐之助はおとなしく代官の元へ出頭し、堺町奉行に引き渡されて取り調べを受けたとあるが、もとより勝海舟の文もあること。形式的なもので、幕府からは何のお咎めもなかった。
そして磐之助はその後土佐へ戻り、藩へ敵討の報告を行ったが、その際に、「自分は復讐の一念でむなしく半生をつぶしたが、これからは生まれかわって勝先生の教えをうけ国のため有用な人間になるつもりだ」と話していたそうです。勝海舟の深い恩に報いようとしたのでしょう。
土佐では敵討の件が天晴れであるということから、磐之助はその後親衛の士に取立てられたとある。下士の身分であるものの、恐らく異例の取立てだったのであろう。
しかし、本人の国のために有用な人物になるという思いは残念ながら病魔によって打ち砕かれます。それは27歳というあまりにも早い死だった。
考察
詳しく書かれた資料があり、意外と長めの紹介となりましたが、最後に考察だけ行っておこうと思います。前回同様、敵討の手順に沿って敵討を実施したのか検証してみます。
武士にはかたき討ちの手順とも云うべきルールがあります。そのルールを逸脱すれば、当然お咎めを受ける訳です。誰でも彼でも「親の敵」といって斬りつけて良いわけではありません。簡単に書きますが、以下のようなことがあります。④は列挙はしましたが、そのころの世間的に常識だったと思われる、暗黙のルールです。
①敵討を行う際は主君への届け出が必要
②他領へ仇敵を探して出る場合は、主君から幕府三奉行へ届け出を出す
③届け出を受けて帳面に記録し、許可状を受け取る
④主君に迷惑が掛からぬよう、浪人となる
⑤仇敵を探し出し、現地の役人に許可を取る
⑥現地の役人は仇敵を捕らえたうえで、討手と仇敵の双方を留め置く
⑦現地の役人から幕府三奉行へ敵討の届け出の確認を行う
⑧確認が取れたら、現地に竹矢来などを組み、双方を対決させる
本来は、このような手順をいちいち踏まないと、敵討は行ってはいけない決まりとなっている。ただ、仇敵を前にそんな悠長なこともしておられず、いきなり斬り合いになることもあったようです。
よく時代劇とかで見る竹矢来を組んで、その中で果し合いを行っているシーンは⑧の段階までいった際にされていたようです。
では、今回の敵討をこの目線で検証してみましょう。
| ①主君への届け出の有無 | 届け出は主君に対し行うもので、今回であれば磐之助が主君山内豊範もしくは山内容堂にたいして行ったかどうかです。 文章中にもありましたが、槍術修業のためと嘘をついて国を出ています。3年前に疑いとは云え、脱藩を試みていることからも敵討をしたいことは想像していたかもしれません。 | × |
|---|---|---|
| ②幕府への届け出 | 主君にも届けていないので、当然幕府への届け出もなかったとみるべきです。 | × |
| ③許可状の有無 | 藩へは黙っていたので、当然許可状もありません。 | × |
| ④主君への暇 | 主君への暇も当然ありません。 | × |
| ⑤仇敵の所在地での届け出 | 仇敵が居住してた地が不明ですが、堺に住居があったかもしれませんね。当然、届け出も無しです。 | × |
| ⑥仇敵の逮捕 | 仇敵が逮捕されていたのは紀州藩での話で、別件逮捕されていたわけですね。敵討の為ではありません。 | × |
| ⑦三奉行への届け出確認 | 勝海舟の文がありますが、これは軍艦奉行並が出したもので、三奉行の届け出とはなりません。勝海舟が手を回していた可能性はありますが、ここでは届け出はなかったものと思います。 | × |
| ⑧役人監視のもと双方対決 | 状況を見ると、名乗りを上げてはいるものの、国外追放後に決闘を申し込んでおりますので、、許可が出ていなかったのは明白ですね。 | × |
見事なまでに敵討のルールを無視した敵討ですね。全てにおいて「×」です。
これからも検証は行っていく予定ですが、ルールに則った敵討事件というのが逆にあるのでしょうか?結構みなさん好き放題されているので、二回目にして検証する意味がないような気がしてきました。
それでも、意味のないことを検証するのも意味があると信じてこれからも頑張っていきますので、皆様応援のほどよろしくお願いいたします。
では、本日はこの辺で。
更新日:2023年1月3日
参考資料
- 中公文庫 『敵討』 平出鏗二郎著
- 中公新書 『かたき討ち 復讐の作法』 氏家幹人著
- 新人物往来社 『歴史読本1月号(第四十二巻第一号)』
- 白竜社 『坂本竜馬海援隊始末記』 平尾道雄著
- 高知新聞社 『平尾道雄選集 第4巻』